「雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
2004年(平成16年)4月26日、雅子妃は軽井沢でのご療養から帰京された。この頃が、雅子妃の症状が「最も悪かった時期」といわれた。
5月10日、東宮御所・檜の間。訪欧を前に開かれる会見場に現れた皇太子はいつもと変わらないご表情だった。膝の前に置いた手を組み直され、幾分か緊張されたご表情に変わった。
「雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます」
そして、記者たちを真っ直ぐ見据えて、次のように述べられた。
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」

会場の空気は一気に張り詰めた。
「(人格を否定とは)どのようなことを念頭に置かれたお話なのですか」
すると、皇太子はゆっくりと頷かれて、
「そうですね、細かいことはちょっと控えたいと思うんですけれど、外国訪問もできなかったということなども含めてですね、そのことで雅子もそうですけれど、私もとても悩んだということ、そのことを一言お伝えしようと思います」
皇太子の表情は、緊張が解けないままだった。記者の中には興奮して、クラブ席に急いで戻り、あわただしく電話を掛ける者もいた。
疲れた心に追い打ちをかけるような思いやりのない言動
衝撃的な皇太子の発言から1週間。17日、遂に宮内庁が両陛下のお考えとして、
「社会的影響の大きい発言であり、改めて皇太子殿下から、その具体的内容が説明されなければ、国民も心配するだろう」
と発表したのである。

6月8日には、皇太子が書かされたとも言われた「人格否定発言の補足説明」が発表された。
──結局、「人格を否定するような動き」とは何だったのか。
雅子妃が皇室の一員として、また一人の人として生きる道を封じ、孤立させ、希望を奪い、「何も考えずお世継ぎを」と繰り返したこと、ご懐妊されない理由を雅子妃のみのせいにし、疲れた心に追い打ちをかけるような思いやりのない言動を続けたことではなかっただろうか。
「適応障害」と公表
由々しき事態を心配された両陛下は、宮内庁に環境づくりの見直しを検討するよう要請された。宮内庁と東宮職は、ようやく主治医探しに本格的に動き出したのだった。
「人格否定発言」会見から約2週間後、皇太子ご夫妻は、慶應大教授の大野裕医師に初めて会われた。翌6月からは、計画的な治療が始まった。
7月30日午後、宮内庁は会見で雅子妃の病名を初めて公表した。
「適応障害」──。
病名の公表は雅子妃のご意思によるものだった。
「適応障害」とは、どのような病気なのだろうか。
大野医師と同じ米国の判断分類で治療を行っている医師の一人は、「どちらかというとPTSD(心的外傷後ストレス障害)に近い概念です。ただPTSDのように直接生命に関わるほどのストレスではないという違いがあります」と解説した。
皇室内でも波紋を呼んだ「人格否定発言」
皇太子殿下の「人格否定発言」によって、雅子妃に主治医が着任して治療環境が整ったが、同時に多くの軋みも生まれた。
11月25日、午前。秋篠宮殿下の39歳の誕生日会見は、緊張した雰囲気に覆われた。
「私の感想としては、やはり少なくとも記者会見という場所で発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上で話をするべきではなかったかと思っています。そこのところは、私は残念に思います」
と、兄の皇太子に苦言を呈されたのである。
記者は秋篠宮の穏やかな話し方の中にある”剛”を感じ取っていた。
秋篠宮の会見からほぼ1カ月。次に皇太子に苦言を呈したのは、他ならぬ天皇陛下だった。

12月23日、天皇陛下71歳の誕生日の文書で、皇太子の「人格否定発言」については、
〈私としても初めて聞く内容で大変驚き、「動き」という重い言葉を伴った発言であったため、国民への説明を求めましたが、その説明により、皇太子妃が公務と育児の両立だけではない、様々な問題を抱えていたことが明らかにされました〉
雅子妃については、
〈公務と育児の両立に苦しんでいるということで心配していました。疲れやすく、昨年の5月ごろからこちらへの訪問がほとんどなくなり、公務を少なくするようになった時も、何よりも体の回復が大切だと考えていました〉
皇太子ご夫妻は、陛下の言葉を重く受け止められたという。
「病気になった自分が悪い」眠れない日々が続いた雅子さま
「雅子妃はご自分が病気になったことが、”人格否定発言”に繫がり、結果的に両陛下にご心配をおかけしてしまったと心から申し訳なく思われていたといわれています」(元東宮職)
病気になった自分が悪い──雅子妃は不安を抱えたまま治療を行っていた。眠れない夜が続いた。
2005年(平成17年)の新年一般参賀には、2年ぶりに雅子妃も出席された。
この年11月にご結婚され、皇室を離れられる紀宮清子内親王と並ばれ、天を舞う鳥を見つめていた。

ベアトリクス女王が招待した「オランダでの静養」
2006年(平成18年)6月23日、野村一成大夫が定例会見でこう述べた。
〈皇太子同妃両殿下は、ご静養のためオランダ国でお過ごしになってはいかがかとの同国ベアトリクス女王陛下のご招待があり、今般、これをお受けになって、愛子内親王殿下の幼稚園夏休みの時期に、三殿下ご一緒でのオランダ国におけるご静養のため、8月中旬から下旬に同国に御旅行御滞在になる予定であります〉
東宮関係者が語る。
「ベアトリクス女王の夫、クラウス公もうつ病を長く患っていたことなどもあり、精神疾患に理解がありました。皇太子と長男のウィレム・アレクサンダー皇太子(現・国王)は以前から仲がよかった。皇太子が雅子妃の背中を押したといわれています」

8月17日、ご家族だけの方が落ち着かれるだろうというオランダ側の配慮から、一行は公用車でアムステルダムから東へ約80キロの人口約16万人の小さな都市アペルドールンへ。ここで滞在するオランダ王室離宮のヘット・アウデ・ローは、17世紀に建てられた貴族のための狩猟用の館だった。
翌日には、お城の馬車庫のドアから姿を見せられた日蘭の皇族・王族ご一家は、和やかに揃って報道陣に向かって歩いてこられると、馬車の近くで足を止められた。
雅子妃は笑顔で手を振られたが、緊張されているようだった。ベアトリクス女王が雅子妃の気持ちをほぐすように、何度も話しかけられていたのが印象的だった。
「妃殿下は、オランダ静養を迎えられるまでフラッシュバックと闘っていたそうです」(宮内庁関係者)
皇太子ご一家が過ごされているオランダの離宮は、高い塀に囲まれていて関係者以外は報道陣も入ることが出来ない。到着から数日すると、少しお元気を取り戻されつつあった雅子妃は、王室が所有する広大な森をドライブされた。




